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Rocky's eye No16 「われ突入する」

昭和19年12月15日早朝、埼玉県熊谷市の荒川で、幼い2児を道連れにした母親の心中遺体が発見されました。 この話は当時の報道規制により記事を差し止められ、長い間ごく僅かな人にしか知られていませんでした。しかし、彼女の夫の髪の毛と爪が、戦後53年ぶりに心中した母子3人の遺骨と一緒の墓に納まった記事を、今でもはっきり覚えています。

7年前、関西空港からバンコクに向う飛行機が、ちょうど鹿児島県の錦江湾上空を飛行している時に偶然目にしました。物語は65年昔にさかのぼります。普通、特攻隊の教官は17、8歳の若い少年飛行兵に精神訓話や一般教育、それに先輩の勇姿の講話をして、自らは特攻しないのが普通でした。 しかし、藤井一(はじめ)中尉(当時29歳)だけは、『お前たちだけでは行かせない。中隊長も後で必ず行く』と、あるときから自らも特攻隊員として護国の鬼になる決意を皆に誓うようになりました。 勿論、夫を特攻隊に出すなんて妻のふくさん(当時24歳)にしてみればとんでもない話。いつも志願をやめるように言っても聞いてくれないと泣いていました。

嘆願書まで出して特攻を希望する夫に対して、妻としての最後の思いやりだったのでしょう。ある日、藤井中尉が家に戻ると奥さんと2人の子供がいません。 机の上には『一足お先に行かせて頂きます。心おきなく戦ってください』と書かれた遺書が残っていました。必死の捜索も空しく、翌朝中尉の元へ悲報が入りました。中尉は現場に向う車中で同僚に『今日は涙を流すかもしれないが、勘弁してくれ』と告げました。ふくさんは晴れ着を着せた千恵子ちゃん(生後4ヶ月)をおんぶし、一子ちゃん(4歳)の手を自分の手にひもで縛り付け真冬の川へ飛び込んだのでした。

中尉は毛布にくるまれ運ばれてきたふくさんの足についていた砂を払いのけ、冷たい顔に口をつけ、『おれもあとからすぐに行くからな』と泣きながら誓い、頬紅を塗ってあげました。妻子の死からわずか5日後、それまで何度も却下されていた嘆願書が航空隊の慣例を破って受理され特攻隊入りが決まりました。

それから約5ヶ月後の昭和20年5月28日、藤井中尉は『われ突入する』の電信を最後に妻子の待つ黄泉の国に向かいました。終戦の僅か2ヵ月半前のことです。

さて、昭和20年。特攻は激しさを増し、250キロ爆弾を積んだ特攻機が沖縄を目指して飛び立ちました。知覧基地からだけでも436名の若者が飛び立ちましたが、その中に藤井一中尉も含まれています。特攻と呼ばれる戦慄の作戦の生みの親は大西瀧治郎(おおにし たきじろう)中将です。

殆どの日本人はこの史上最悪の作戦の立案者を暴将、愚将と呼びますが、彼が最後まで全力を尽くし戦い抜く責任と、部下一人ひとりの生命の重さを誠に知っていた卓越した指揮官だったことは以外と知られていません。割腹後、駆けつけた軍医にも『決して生きるようにはしてくれるな』と、治療の一切を拒み、想像を絶する痛みのなか15時間かけて、少しづつ出血多量で絶命していきました。血の海で悶え苦しむ中、大西中将は、『これでわしが送り出した部下達との約束が果たせる』と言われていました。 確実に死を免れることのなかった特攻隊隊員たち。彼らは死に様をもって未来の日本人にあることを伝えたかったのです。大西中将は、『なぜ特攻を続けるのですか』という報道班員(戦時記者)の質問を受けこう答えています。『ここで青年が起たなければ、日本は滅びます。しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのです』

歴史の真実を見つめ直した時、我々は死に直面した者たちの唯一の残された手段が、命を未来につなぐことであり、それが21世紀の日本人に託された遺言であることに気づくでしょう。

 

拝 Rocky Tamotsu

 




 



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