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Rocky's eye No12 「維新劇場」

江戸幕府が倒れ、晴れて明治の世になったことを一番驚いたのは、実は、倒幕に命を賭けた志士たち本人でした。それほど倒幕とは夢のまた夢、本当に大きな賭けでした。廃藩置県にしても、このようなもしヨーロッパで起これば、少なくとも数十年、いや数百年間の戦争が起こる程の近代世界史に類を見ない程の権力の異動でした。これら大事業を江戸から一番遠い薩摩の西郷隆盛ら、わずかの勢力だけで成し得たのは実に不思議なことです。彼らは一体何処から来て、何処に去っていったのでしょう。

大東亜戦争(第二次世界大戦)以前の大戦は、我々の頭の中に歴史としての結果だけが残っており、いまさら検証するなどということは、一見何の得にもならないかもしれません。しかし、連合軍をして、『まず、薩摩の精神性を潰さなければいけない』と言わしめたことの本意を考えると、裏を返せば、日本を守れるかは、薩摩の精神性にかかっていると言っても良かったのでしょう。

薩摩を動かした志士たちの気骨は、遺伝子の中にあった血統に、少年時代の西郷、大久保の精神性を築いた、郷中教育、更には、桜島から発散される火山エネルギーが絶妙に掛け合わされ、天文 学的数字の確率で、志士達の輩出と、時代が重なり合ったのではないでしょうか。天は時として必要な時に必要な人物を選び舞台に立たせ、役目が終わると容赦なく舞台から降ろします。下加治屋町(しもかじやちょう:現在は”かじやちょう”)で幼い時期を過ごした英傑たちは、その後さまざまな運命を辿ることになりますが、全員が「維新劇場」の主役だったことにはかわりありません。

思えば、幕末、維新、日清戦争、日露戦争など、まさに日本国家の存亡の時期をリードした英傑が下加治屋町と呼ばれる極めて小さな地域より輩出したことは、近代世界史の奇跡です。殆どの歴史書では、松茸群生論で片付けられているこの事実も、その昔、約70戸しかなかったこの地区の何が英傑たちを生み出すきっかけになったのかを、歴史学者たちが真実の探求を拒んでいるようにも思われます。もし、下加治屋町で生まれ育った志士、そして、その血筋は、日本最後の国内の乱「西南戦争」、そして、「日清戦争」、「日露戦争」、「大東亜戦争」まで脈々と息づいており、仮に、下鍛治屋町が地図上になければ、今でも世界の90パーセントの国は植民地だったでしょう。

さて、歴史は繰返し、加治屋町の地霊が新たな平成維新を起こすのかもしれません。加治屋町を調べれば調べるほど、西郷隆盛とその先祖たち、そして、その向こう側には維新史だけでなく、征韓論の真相初め、日本史全体の真相が秘められていると思われるからです。

大東亜戦争に敗れたドイツと日本が、経済大国として繁栄している今日の姿や、関ケ原で敗れた薩摩、長州が明治新政府の中心になったことを考えてみますと、逆転の法則、即ち、裏が表を駆逐する法則がまた次ぎも働くのかもしれません。かつて内村鑑三が『歴史は、西郷の生涯の此の部分を解決し得る以前に、なお百年を待つべきである』と書いた通り、西郷ほど多くの人に知られ、且つ、知られていない謎の多い人物はおりません。(維新の志士たちの写真は全てあるのに、なぜか西郷の写真だけは存在しません)

天文19年、島津貴久が鉄砲によって勢力を伸ばして伊集院城(いじゅういん)から鹿児島城へ移るとき、伊集院にあった鉄砲の鍛冶屋衆を率いて、甲突川畔の加治屋町の地に移り、それが鹿児島西郷家の祖となったようです。西郷、大久保らが生まれた加治屋町は、幕末当時までは一般に『ゆた筋』と陰口をされておりその中でも西郷家だけは『岩屋天狗の子孫』と言われ『ユタノン家』とか『ユタモン家』と呼ばれていたそうです。西郷家の家格は、小姓組(御小姓与・おこしょうくみ)という、城下士のなかでは下から2番目に低い身分でした。代々、島津八家の一門、日置家の家扶として冠婚葬祭などを司るユタノンといわれる家筋でした。これが西郷が不可解といわれる陰の部分で、革命家の本質です。それに西郷をはじめ体格が非常に大きな血筋で、大久保、大山、村田、辺見、高橋らが180cm以上の大男ばかりだったことを考えれば、これは単なる偶然ではないと思われます。

島津斉彬(なりあきら)が、西郷を大抜擢した理由は、『島津史』には、西郷が提出した農事意見書がきっかけだと記されていますが、本当の理由は、西郷が、ある英雄の血を受け継いでいることを斉彬が知っていたからで、西郷本人は『なぜ見出されたのか全くわからない』と言っています。後年、斉彬が越前公に『私は、家来多数あれど、誰も間に合う者はいない。しかし西郷一人は薩国の大なり。しかしながら、彼は独立の気性が強いから、彼を使うのは私ならではあるまじく・・・』と語ったように、英雄、英雄を知る。さすが英明な斉彬は西郷の人物を見抜いていました。

もう一人、藩士たちからも師と仰がれていた川口雪篷(かわぐちせっぽう)という人物が西郷家で世話になっていました。表向きは、島津藩の書庫係りでした。酒好きな雪篷は本を売った金で酒を飲み、その罪で島流しになり、流刑中西郷を知り漢詩の師になったことになっていますが、ご存知の通り、西郷隆盛は2度の沖永良部の島流しがきっかけで、自己醸成を遂げ、同時に、宇宙観にも目覚めました。それには、流刑中の西郷を精神的に育てようと、同じ時期に西郷と同じ島に送られた(計画的に)雪篷の存在が大きく関わっていると思われます。

世界の中の小さな小さな日本、そして日本の一番端にある薩摩、その中の加治屋町という僅かな地域から維新の原動力が寸分のズレもなく生まれ出たことは、或る意味において、大自然の大きな意志が働いていたのかもしれません。

 

拝 Rocky Tamotsu

 




 



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