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Rocky's eye No11 「21世紀への遺言」

昭和20年、特攻は激しさを増し、250キロ爆弾を積んだ特攻機が沖縄を目指して飛び立ちました。知覧基地からだけでも436名の若者が飛び立っています。 鹿児島県は知覧基地以外にも他のどこよりも多い14の海軍・陸軍飛行場を有し、ここから多くの若者が日本の未来のために自らの命を捧げました。

特攻と呼ばれる戦慄の作戦の生みの親は大西瀧治郎(おおにし たきじろう)中将です。殆どの日本人はこの史上最悪の作戦の立案者を暴将、愚将と呼びますが、彼が最後まで全力を尽くし戦い抜く責任と、部下一人ひとりの生命の重さを誠に知っていた卓越した指揮官だったことは以外と知られていません。

山本五十六(やまもと いそろく)連合艦隊司令長官の知恵袋だったにも拘わらず、大西中将は大東亜戦争に負けることを最初から予期し、特に真珠湾攻撃については最後まで強硬に反対し、『ハワイに対し奇襲攻撃を行い、米国民を怒らせるのはもってのほか。もし敢行すれば米国民は最後まで戦う決意をするだろう。ハワイを奇襲攻撃すれば妥協の余地が完全に失われ、最後の最後まで戦争をすれば日本は「無条件降伏」せざるを得なくなる。だからハワイ奇襲は絶対にしてはいけない』と予言めいた進言を山本連合艦隊司令長官にしています。

更に、大艦巨砲主義に歯止めがかからなかった当時、国家予算の3パーセントが大和・武蔵などの巨大戦艦の建造費に当てられていたことに対しても、『大型戦艦などより、1000機の戦闘機を作るべき』と発言するなど、当時の世界の趨勢が巨大戦艦から航空機へ移っていたことを見抜いていました。

終戦の2年前から海軍には、体当りを目的とした特殊航空隊などの特攻思想があり、後に大西中将がマニラに着任した時には、既に海軍内では特攻を行う為の様々な特攻兵器が開発中で、大西中将は、元々、『搭乗員が100パーセント死亡する攻撃方法は採用する時期ではない』と退けるなど、海軍内でも、特攻思想とは一番距離を置く人物でした。特攻作戦が開始されても、『統帥の外道』で、本来あってはならない作戦と自ら言い、海軍内では大東亜戦争の終盤まで、航空機増産に一番尽力していました。

大西中将は特攻隊の生みの親と信じられていますが、特攻という暗部を、一言も弁明せず自分一人で墓場まで背負って行くのが日本海軍史にとって最良の方法で あることを直感していたのでしょう。生前、自分のような者は、百年の後も知己はないだろうと周りに漏らしています。名声や勲章をほしがる昨今の偽政者に大西中将の爪の垢でも煎じて飲ませたいのは私だけではないはずです。

最盛期1600機もあった航空機は、大西中将がマニラに赴任した時には僅か30機しか残っておらず、本土と資源地帯である南方との連絡線を死守するために、特攻隊を編成することが、この時考えられた唯一の手段でした。この時から終戦まで行われた特攻作戦のために、陸・海軍併せて、4380人の若い命が沖縄の海に散りました。命中率は12パーセントでした。

終戦の次の日、昭和20年8月16日。渋谷区南平台の軍令部次長官舎で大西中将は割腹自殺を遂げました。武士の作法通り腹を十文字に掻き切り、かえす刀をもって首と胸を突き刺しました。通常割腹自殺は激痛を伴うために、介錯を付け首を刎ねてもらうのですが、敢えて一番苦痛を味わうために介錯を付けない方法を自らの意志で選択しています。

駆けつけた軍医にも『決して生きるようにはしてくれるな』と、治療の一切を拒み、想像を絶する痛みのなか15時間かけて、少しづつ出血多量で絶命していきました。軍人である以上命令はつきものですが、敢えて死ぬという究極の命令を出した者の償い方を常に背中に抱えながら生きていたのでしょう。享年55歳で した。

血の海で悶え苦しむ中、大西中将は、『これでわしが送り出した部下達との約束が果たせる』と言っていますが、彼はマニラで特攻隊を最初に編成した時から、既にいつ、どのような方法で自らの命を絶つか決めていたのしょう。欧米の軍幹部は自国が敗戦になっても自らの命を絶つことはありませんが、仮に、大西中将が戦後も生き長らえ、戦犯裁判により死刑に処されていたならば、特攻で亡くなった4380名の英霊たちが浮かばなかったことを、大西中将は最初から分かっていたのです。

大西中将は、明治24年に兵庫県に生まれました。海軍兵学校第40期生です。海軍の中でも、極めて個性の強い異彩な存在でした。喧嘩がめっぽう強く数々の武勇伝を残し、海軍兵学校内でも、暴れ者として周りからは恐れられる一方、義理人情に厚く、周りから慕われ、相当花柳(かりゅう・色街)界でもてたようです。

風貌もよく似ていた西郷隆盛をこよなく愛し、海軍内部でも西郷隆盛を科学したような男で通っていた大西中将の遺書の最後の部分には、『・・・日本民族の福祉と世界人類の和平のために最善を尽くせ』と書かれてありました。西郷のように、日本という自国だけに留まらず、常に民族と全世界のことを心の中で思い描いていたのでしょう。

さて、ほとんどの日本人は昭和20年8月15日の終戦と共に戦争が終ったと思っていますが、実は、サンフランシスコ講話条約が発行される昭和27年4月28日まで戦争状態は続いていました。終戦後、抵抗のすべもない日本人に残虐かつ非道な戦争裁判が始まったのです。東京裁判では7名のA級戦犯が絞首刑になりました。この裁判と平行して戦勝国がそれぞれ外地でB・C級戦犯裁判を開き、これらにより、1068名が処刑されました。

この戦争裁判は、日本が何世紀も続いてきた白人の植民地政策を終焉に導き、彼らのプライドを傷つけられたうっぷんをはらすかのように、まともな弁護人もおかず審理もずさんきわまりない、戦争裁判とは名ばかりの集団リンチでした。

ほとんどの裁判は冤罪(えんざい・ぬれぎぬ)でした。収容所で行われた日本人捕虜に対する目を覆うばかりの拷問や極悪非道な虐待によって多くの者が亡くなりました。最後まで耐え抜いた者たちは、弁明することもなく壮絶な最期を遂げています。彼らの臨んだ最後の堂々たる勇姿は、あまりにも立派で潔かったために、多くの白人や現地人は感動を通りこして、武士道魂の凄まじさを脳裏に焼き付かされました。遺体は密かに焼却され遺族に遺品が届くことはありませんでした。

20~30歳の独身者や、新妻と幼子を残してきた者も少なくなく、彼らがどれほど親や妻子と最後の別れをしたかったことでしょうか。しかし、死に際しては誰への恨みも一切残さず、一点の曇りもない態度で堂々たる最期を遂げたことが各地で言われています。

戦後の焼け野が原からの奇跡の復興を遂げた日本。一見経済的には成功を収めたかのようですが、その一方で、多くの日本人は何も考えることもなく「戦争」イコール即「悪」というイメージを埋め込まれ、武士道精神の復活を恐れた占領軍からは戦後一貫して洗脳教育が行われ、あたかも過去の大戦での日本の行いが全て悪事であったかの如く教育されました。アメリカに一晩にしかも計画的に10万人焼き殺された東京大空襲のことはいつの間にか忘れ、亡くなった30万人の大半が民間人だった原爆投下などを米国に抗議することもありません。

南京大虐殺の虚構は勿論のこと、昨今の従軍慰安婦や教科書問題を国内の大手新聞社やインテリを手先にして、我々の先達が行った歴史に誇りを持てない世代を意図的に作り出すことに成功したことは、蒙古襲来、黒船来航、第二次世界大戦敗戦に次ぐ国難です。過去最大の国難に直面している今、我々に残された唯一の道は、英霊達によって残された遺言をひもとくことではないでしょうか。

確実に死を免れることのなかった戦犯たち。彼らは死に様をもって未来の日本にあることを伝えたかったのです。

大西中将は、『なぜ特攻を続けるのですか』という報道班員(戦時記者)の質問を受けこう答えています。

『ここで青年が起たなければ、日本は滅びます。しかし、青年たちが国難に殉じていかに戦ったかという歴史を記憶する限り、日本と日本人は滅びないのです』

歴史の真実を見つめ直した時、我々は死に直面した者たちの唯一の残された手段が、武士道に則った死に様であり、それが21世紀の日本人に託された遺言であることに気づくのです。

 

拝 Rocky Tamotsu

 




 



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