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Rocky's eye No9 「バンザイニッポン」

昭和8年(1933年)にドイツにヒトラー率いるナチス政権が誕生しました。昭和12年の秋頃からヒットラーがユダヤ人の国外追放を開始した結果、大量のユダヤ難民が発生、翌年にはユダヤ難民に同情的だった米国や英国でさえ入国を制限し、世界中の国々はユダヤ難民の受け入れを拒みました。

ドイツからの国外退去を命ぜられたユダヤ人たちはポーランドに流人を試みましたが、アウシュビッツ強制収容所がポーランドにあることからも分かるように、既にこれ以上の数のユダヤ人を抱えきれ ないポーランドは、ユダヤ難民をロシアヘ押しやりましたが、そこで彼らを待ち受けていたのは、シベリアでも開発を放棄されていた酷寒の植地でした。そのような状況の中オトポール事件は起こりました。

昭和13年(1938年)3月、シベリアへ入植するはずだった約2万人のユダヤ難民は、大半が農業などに従事したことのない都会の出身者だったこともあり、満州国と国境を接したソ連領のオトポール駅に満州国へ入国のために押し寄せました。彼らは満州を経由してウラジオストックから日本の敦賀に入り、神戸から上海に向かうために、シベリア鉄道ですし詰め状態の貨車に2週間も揺られながらオトポールに辿り着いたのです。

満州国外務部は同盟国ドイツの顔を窺う関東軍から睨まれることを嫌い、ユダヤ難民の満州国への入国をためらっていました。しかし、着の身着のままで野宿生活をしている難民達の食糧は底をつき、零下何十度という極寒の地は飢餓と寒さで凍死者が続出、事態は一刻を争う状況に置かれていました。ハルピンのユダヤ人協会会長・カウフマン博士は、しびれを切らし満州国外務部を飛び越え満州関東軍のハルピン特務機関長樋口季一郎(ひぐち きいちろう)少将に同胞の窮状を訴えました。

以前から、『ユダヤ人を追放するなら行き先を準備してやるべきだ。』と、公の場でもドイツの抗議を恐れずユダヤ弾圧に対して批判していた樋口少将は、しばし目を閉じるとその場でユダヤ難民の受 け入れをカウフマン博士に約束しました。実は、この時樋口少将が行ったユダヤ難民に対する入国許可は、この時から8ヶ月後に大日本帝国政府が ユダヤ人保護を命ずるユダヤ要綱を出す以前のことで、樋口少将のユダヤ人救出は明らかに独断の職務権限の逸脱でした。しかし、樋口少将は後に自らが受ける裁きは覚悟の上で、満州鉄道総裁の松岡洋右に救援列車の交渉を始めま した。

それから僅か2日後、ハルピン駅でユダヤ人協会幹部と救護班を乗せた12両編成の13本の救援列車オトポール駅に到着しました。凍傷、栄養失調、自力で歩行できない者などから先に列車に運ばれました。

車内で温かい飲み物や、衣類などを手にした難民たちは、自分たちが目にしている光景が信じられないのか、救援列車に乗車し動き出すと多くの者は泣きながら抱き合いました。この時のユダヤ難民の8割は上海を経由してアメリカへ渡り、4千人は樋口少将が部下に指示して斡旋した土地と住居で開拓農民としてハルピン奥地に入植しました。

樋口少将が行ったユダヤ難民保護は、後にドイツ外相をして駐日大使を通じて、日本とドイツの同盟関係に影響を及ぼすと猛烈な抗議を行いました。しかし日本は、『日本はドイツの属国にあらず』 と、政府は樋口少将を罰したどころか、同盟国を気にすることなく、樋口少将に2階級特進を与えました。

終戦後、樋口少将はソ連極東軍により戦犯指名され身柄の引き渡しを要求されましたが、この話を聞いたニューヨークに本部を置く世界ユダヤ協会は世界中のユダヤ人に樋口少将救出運動を展開させ、 アメリカの国防総省を通じて、ソ連からの引き渡し要求を拒否し、逆に樋口少将を擁護しました。

ところで、オトポール事件から少し経った第二次世界大戦の初期、ナチス・ドイツのユダヤ人狩りはとうとう占領下のポーランドにも及び、多くのユダヤ人が難民としてヨーロッパ各地に流出していました。また、ソ連によるポーランド侵略も時間の問題で、ソ連がユダヤ人にドイツ圏への退去、即ち強制収容所へ送られるのは火を見るより明らかでしたが、この時のヨーロッパにはユダヤ難民を受け入れる国は全くありませんでした。進退窮まったユダヤ難民が生き残る道は、シベリア鉄道でウラジオストックから敦賀に入り、神戸、横浜を経て上海経由でアメリカへの脱出でした。

当初難民達はリトアニアの首都カナウスにあるアメリカ領事館にもビザ取得のために殺到しましたが、移民の枠がない(本当は余っていた)と申請自体の受付をアメリカ領事館は停止していました。既にフランスやオランダもドイツに敗れ、迫害を受けている難民達は日本の通過ビザを得るために、カウナスの日本領事館に殺到しました。当時、在カウナス日本領事代理だった杉原千畝(すぎはら ちうね)は、領事館の前に延々と続く長蛇の列を見て一晩考えま したが、決意を固めると、翌日領事館の鉄柵越しに集まるユダヤ難民に、『ビザを発給する』と告げました。するとその瞬間、群衆は抱き合い、杉原領事代理に、そして天に向かって感謝の祈りを捧げたのでした。

杉原領事代理は後リトアニアが昭和15年8月にソ連に併合されるまでの1ヶ月の間、全身全霊でユダヤ難民のために毎日手が痺れるまで合計6000枚ものビザを書き続けました。

9月5日、杉原領事代理の退去の日が訪れました。杉原領事代理夫妻はカナウス駅からベルリン行きの国際列車に乗り込みました。しかし、そこでもビザを求め大勢のユダヤ人がホームに来ていたのです。杉原領事代理はそこでも窓から身を乗り出してビザを書き続けました。しかし、遂に列車が動き出すと、『許して下さい。私にはもう書くことがでません。皆さんの無事を祈っています。』と叫びました。するとホームに立っていた大勢のユダヤ人たちは、『バンザイ ニッポン、バンザイ ニッポン』と何度も叫び、大勢の若者も列車が見えなくなるまで手を振り続けま した。

杉原千畝が日本に帰国して21年の歳月が過ぎたある日、既に外務省を退職し貿易会社に勤務していた千畝のもとにニシュリというユダヤ人が突然が訪ねてきました。

ニシュリはイスラエル政府の参事官で在日イスラエル大使館に出張していたのです。 ニシュリは大使館に到着すると、開口一番、『1940年頃、カウナスの日本領事館の副領事だったスギハラという人を探しくれ』と大使館員に頼みました。ニシュリは28年間杉原を探し続けましたが、どういう訳か、ずっと該当者はいないという回答しか得られなかったのです。しかし、大使館員の懸命の努力により、杉原千畝の居場所がわかり、ニシュリは千畝が勤務する貿易会社を訪ねたのでした。

杉原を見たニシュリは微笑みながら、『ミスター スギハラ、あなたは私を覚えてないでしょう。 でも私は一日もあなたを忘れたことがありません。』と言うと、杉原がカナウスで発行したボロボロになったビザを懐から取り出し広げました。ニシュリは大粒の涙を流しながらスギハラの手を取り、イスラエルでは何千人という人が、このビサを宝物にして大事に持っていること、それに、今でも多くの者がスギハラに感謝していることを伝えました。この時の話が本国に知れ渡り、杉原千畝の人道的な事実が全世界に広がることになりました。

スティーブン・スティルバーグ監督作品でアカデミー賞受賞の『シンドラーのリスト』は、ドイツ人事業家シンドラーが自分の工場で働く1200名のユダヤ人労働者を私財を投じて救出する実話を映画化しものです。 欧米では感動作として大変話題になりましたが、杉原千畝はシンドラーよりも3年も早く、それも何倍もの数のユダヤ人を救出していたのです。

1968年(昭和43年)、杉原千畝はイスラエルから招待を受けました。待ち受けていたのはバルハフティック宗教大臣で、彼もまたカウナスの日本領事館で杉原と交渉したユダヤ人代表の一人でした。バルハフティック宗教大臣は涙を流しながら、『あの時はありがとうございました。このご恩は忘れません。』 と手を握り締め、杉原千畝をユダヤ人を救った外国人を讃える記念館に案内し、記念植樹を行いました。

更に、1985年(昭和60年)、杉原千畝が85歳の時に、イスラエル政府から日本人として初めて、ユダヤ建国に尽くした外国人に与えるヤド・バシェム勲章(諸国明の中の正義の人賞)が授与されました。ダイヤモンドをちりばめた銀製の勲章は病床にあった杉原千畝の代わりに、夫人と長男が授賞式に臨みました。そしてこの翌年、杉原千畝は世界中のユダヤ人から届く感謝の気持ちを見届けたかのようには静かに天に召されたのでした。

杉原領事代理は外務省の方針に背いて、身の危険を覚悟の上で独断でビザを発給した責任を問われ外務省を解任になったとする説もありますが、当時、既に日本政府によるユダヤ人保護に則ったユダヤ要綱は決定されており、杉原領事代理の行為は本人の独断ではなく政府と軍部の意思が存在していたことが明らかになっています。しかし、この時代、日本以外の世界各国がユダヤ人に対して行っていた人道無視の扱いを考えれば、ユダヤ人へのビザ給付は、命がけの仕事であったことに変わりありません。更に、当時、ヨーロッパの10所以上の日本領事館でユダヤ人へ多くのビザが発給されていた事実も確認されています。

1919年のパリ講話会議で、日本は国是でもある『人種平等』を押し進める絶好のチャンスと考え、人類の歴史上初めて、国際連盟の規約に『全ての人種は平等である。人は人種によって差別されない』という旨を規約に入れることを提案しました。結局この規約は米国の激しい反対のために受け入れられることはありませんでしたが、以来、人種差別が欧米で公然と行われていた時代にも、日本は敢えて国是である『人種平等』の精神を貫き、多くのユダヤ難民を救いました。世界中の国々がユダヤ人に完全に門戸を閉ざしていたにも拘わらず、欧州の日本領事館の扉だけは人種や国籍に関わらず、ユダヤ人にも公平に開けられていたのです。

樋口季一郎少将が満州を離れる当日、駅は数千人の群衆で埋め尽くされていました。詰めかけた群集の中には、数十キロ奥地から駆けつけたユダヤ人開拓農夫の家族も多く見られました。樋口少将が駅前に立つと、日の丸と満州国旗を手にした人々の中には地面にひざまずき、涙を流しながら樋口少将を拝む者もいました。

樋口少将が「あじあ号」の最後尾の展望台に立つと、ホームの溢れんばかりの群衆は、『ヒグチ ヒグチ』と歓声をあげていました。そしていよいよ列車が動き出すと、いつの間にか歓声は、『バンザイ ニッポン バンザイ ニッポン』に変わり、少年達は力つきるまであじあ号を追って走り続けました。

標高700メートルに位置し、全長4.5キロの城壁に囲まれた旧市街地を中心に、イエスが復活した聖墳墓教会、ダビデの墓、嘆きの壁などの世界的な遺産を有する聖地エルサレム。キリスト教、イスラム教、ユダヤ教の聖地であるこの場所に、高さ3メートル、厚さ1メートル、本を広げた形の黄金の碑「ゴールデンブック」が丘の上に建っています。これはユダヤ民族の幸福に力を尽くした人々への恩を未来永久に讃えるために、世界に散らばったユダヤ人が金貨や指輪を贈りあっ造られたのです。

モーゼ、メンデルスゾーン、アインシュタインなどの次、上から数えて4番目に、『偉大なる人道主義者、ゼネラル樋口』と彼の名前は刻まれています。

 

拝 Rocky Tamotsu

 




 



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