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Rocky's eye No3 「大空を駆ける時計」

今年66回目の終戦記念日を迎えます。戦後生まれの私には戦争のことは想像するしかありません。唯一の私と戦争のつながりは、元特攻隊員の浜園重義さんから頂いた、零戦の破片(浜園さんが自衛隊を退官後、漁師になられ網にかかった破片)に毎朝手を合わせること。そして浜園さんから伺った数々の戦時中の記憶を思い出すことです。

2001年に上映された映画「ホタル」の舞台は鹿児島県の小さな田舎町。山岡(高倉健)は病弱の妻(田中裕子)と漁師をしながら静かに暮らしていました。しかし、特攻隊の生き残りである山岡の脳裏に戦争当時の悲しい思い出が甦ります。志半ばにして命を散らした若者たち、引き裂かれた恋・・・。山岡は昭和40年から、北海道から九州まで、特攻で散華された戦友の慰霊墓参を行いました。山岡が訪ねた当初は両親も健在で、お母さんは皆、『息子が帰ってきたようだ』と固く握りしめた手を離しませんでした。

映画『ホタル』を記念して建立された『ホタル碑』の除幕式が2001年12月16日にゆかりの鹿児島県・知覧特攻平和会館で行われました。主演の高倉健さんは、モデルの元特攻隊員・浜園重義さんと久しぶりに対面し、『おかげさまでいい映画になり、ありがとうございました』と、涙を流しながら浜園さんと奥さんの背中を何度もさすりました。高倉さんは、日本海軍がロンジンを使っていたことを聞き、ベルトが紺色の銀のロンジンの腕時計を映画の撮影中に腕にはめていました。そして、映画のモデルとなったお礼にと、腕時計を浜園さんにプレゼントしたのです。そのお礼のお返しをと考えた浜園さんは、中南部太平洋で数々の空戦にも肌身離さず持っていた海軍時代の懐中時計を贈りました。

鹿児島県指宿郡前之浜在住の浜園重義さんは、昭和20年4月6日、沖縄方面への出撃を命じられ午後2時に国分基地を飛び立たちました。これは菊水作戦第一号と呼ばれ、この日国分基地ほか、鹿屋、知覧などから陸海軍の航空隊300機が出撃しました。700キロ先の沖縄まで約2時間。飛び立って直ぐ桜島を左に鹿児島市街地を右に見ながら、故郷の前之浜上空を通過する頃には、手元の懐中時計は離陸後20分を指していました。幼い頃いつも父親と遊んでいた山々や小学校、自宅直ぐ近くの海岸に波が打ち寄せているのまで分かりました。親、兄妹、そしてこのきれいな山河を絶対にアメリカに渡したくなかった。家族を守るため、故郷を守るために命を捧げる決心をし、本土最南端の開聞岳を右翼越しに見ながら敬礼、そして翼を3度縦に振り一路沖縄海上を目指しました。懐中時計をちらっと見ると4時15分。雲量は9位で小雨が降ってきたと思うと、左前方の雲の切れ間に白いものが2、3光り、数秒後激しい空戦が始まりました。敵機がレーダーで誘導されていることは間違いありませんでした。

相手は海兵隊のF4コルセア。近くに艦船がいれば大小問わず突っ込むつもりが、周りには何も見えません。この状況では敵艦まで到達するのは不可能。生きる望みはないけれど、もし生き長らえればまた出撃できると思い、どうせ死ぬならやるだけのことはやってみようと、搭載していた爆弾を捨て、機体を軽くして応戦しました。数秒後、後方から曳光弾が機体の周りを走りました。避退するために機首を下方に60度位の急降下に入り雲の中へ突っ込みました。敵が機銃を発射した瞬間を見て、左急旋回、左足を少し踏んで左横滑り。六基の機銃から毎秒40発発射される曳光弾が機体を包むように流れてきます。左に避けるので右翼の方に弾丸の集団が走りますが、どこに命中したか見る余裕は全くありませんでした。

敵の攻撃が一層激しくなりました。左旋回一杯したその時、5~6発が浜園さんの左肩を後方から貫通し、再び右足の前方に射抜きました(浜園さんの身体には今も16コの機銃弾の破片が残っています)。敵は3機の編隊を組み、進行方向1000メートルのところで反転、真っ直ぐ横一列でこちらに向かってきます。もうどこにも逃げられません。しかし、今か今かと待っても弾丸が飛んできません。何度も『もうこれまでか』と思いましたが、恐らく敵は全弾撃ち尽くしたのでしょう。敵はバンク(羽を上下に振る)をすると追ってはきません。懐中時計を見ると35分の長い空戦でした。

天候は益々悪くなってきました。奄美大島に不時着覚悟で進路をとればなんとかなりそうでしたが、その線上には戦闘機が警戒線を厳重に張っているのは確実でした。帰りの燃料はどう計算しても不足、1メートルでも九州に近づこうと進路を北北西に取りながら計器飛行を続けました。計算通りであれば午後7時30分頃開聞岳上空のはずです。エンジンの焼け焦げる臭いが段々強くなった頃は懐中時計は7時を指していました。燃料計はどんどん零に近づいていき、高度は900メートルに下がり、海面の白い波が見えてきました。左右前方を何度も見ましたが、陸地らしいものは何も見えません。やがて日が暮れ、燃料計は小刻みに振るえるだけになりました。切替弁を再度確かめましたが間違いありません。エンジンはいつ止まってもおかしくない状態です。すると前方に夕闇の中にかすかに開聞岳が見えてきました。高度が600メートルまで落ちてきたところで、知覧飛行場のものらしき灯りが遠く前方に4個点灯されていました。ほっとしたその瞬間、基地では敵機と思ったのか灯りを全て消してしまいました。

エンジンは益々不調。フラップを更に二度出して降下を防ぎましたが、不時着(墜落)は時間の問題でした。もう、下方は殆ど見えません。時折、大きな木々や民家が後方に去ってゆくのが分かりました。大体の感で、この当たりではないだろうかと思い懐中時計をちらっと見ると午後7時40分。遂にエンジン停止、左に一杯傾けてスイッチを切った数秒後、大きな衝撃を受け、意識も次第に遠のいていきました。気が付いたのは翌くる日の正午。知覧小学校の仮病棟で唇の手術の痛みで目が覚めました。不時着場所は知覧の町から南に約6キロの畑でした。浜園さんは戦後2回不時着場所へ行きました。座席、特に、左翼日の丸から外側、後部座席に3発。全部調べてみると計78発の弾痕がありました。

さて、『お返しに』の懐中時計が届いた高倉さんは、こんな大事なものを受け取るわけにはいかないけれど、どうしても動くようにしてあげたいと、ロンジンの日本支社に交渉します。余りにも古く、とても日本では手の尽くしようがないと、日本支社ではアメリカに託しました。ところが、米国ロンジン社でもパーツが全く残っていません。しかし、いくらこの時計が日本のパイロットの持ち物であっても、命をかけて国を守ったことには敵も味方もない。このまま眠らせておくわけにはいかないと、最後の望みをスイス本社へつなぎます。

スイス本社でも、既に製造から80年も経った懐中時計のパーツが見つかるはずがありません。しかし、懐中時計が太平洋、大西洋を渡りスイスに辿り着いた頃には、いつの間にか、半世紀以上も前に、一人の日本人パイロットと共に大空を駆け巡ったこの懐中時計に再び新たな息吹を吹き込むことが、ロンジン社にとって新しい製品を作るよりも意義のあるものになっていました。

スイス本社では、この懐中時計が製造されていた時の社員探しが始まりました。名簿を見ると、殆どの社員が既に他界していましたが、運よくこの時計を作っていた90歳を優に超えた老職人を一人捜し出すことができました。そして、これまでの経緯を知らされた老職人は、今まで培った全ての技術と経験を注ぎ、丹精込めて一つ一つ新しい部品を作りだしました。こうやって終戦後間もなく壊れて動かなくなった懐中時計は世紀を越えて製造された同じ場所で息を吹き返えしたのです。

2001年11月。高倉さんから浜園さんの元へ厳重な包みが届きました。それほど重たい物ではありませんでしたが、包みに何が入っているのかわかりませんでした。開けてみると中には高倉さんに贈った懐中時計と壊れていたパーツが一緒に入っていました。『自分も耳に当てて時を刻む音を聞いてみました。自分のことのようにうれしい』と書かれた高倉さんからの手紙も添えてありました。浜園さんは大粒の涙をポロポロ流しながら懐中時計のネジを回しました。すると遠い昔に聞いたことがある懐かしい音と共に秒針が動き始めました。浜園さんは56年振りに戦友たちと再会するかのように、懐中時計を手に取り何度も何度もなでました。

これは映画『ホタル』にまつわるもうひとつの物語です。ロンジンは日本でも大東亜戦争時に、高所からの急降下に唯一耐えうる時計として帝国海軍に採用され(陸軍は精工舎を採用)、多くのパイロットがロンジンの懐中時計や腕時計を付け大空を駆け回りました。

拝 Rocky Tamotsu




 



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